セルフメディケーション

月曜から御めかし系女子が優しい嘘を求める日々を綴るブログ

アイドル短歌における“僕”の存在について

止まったら死ぬ生き物な僕たちもあの日ばかりは永遠だったね

上記の歌は、「WEB歌集『J31Gate』」の 第17回に提出させていただいた歌です。テーマは「夢」でした。J31Gateは、ジャニーズのファンが作った短歌を発表するという企画で、毎回楽しみにしています。さまざまなタレントやグループ、ひいてはアイドルという生き物を愛する方々がその存在ををどう捉えているのか、その歌を作った人の視界を借りて見ている気分になります。



私はそんなアイドル短歌において、「アイドル」という存在の視点は二つあると考えています。まず一つ目に、「外界としてアイドルを見る」視点です。

遠雷がまどろむ君の喉笛に棲むうつくしい蛇を呼んでる

上記は私が外界からアイドルの存在を「君」として捉えて作った歌です。これは単純に、私が見ている・妄想しているアイドルを、私の感情100%そのまま表現したもの、いわばアイドルを見ながら絵を描いている感じです。
ちなみにこれは渡辺翔太さんって、いいよね…と思って作りました。綺麗でいて綺麗なだけじゃない自分の中の彼の姿を上手く描けたな〜と気に入っています。


対して、もう一つの視点は、「アイドルとして外界を見る」視点です。

君が見た緑が僕には青色でそれが楽しい夏の始まり

上記は私がアイドルの主観から「君」という外界を捉えて作った歌です。雑誌やテレビなどから得たアイドルの発言や思考などを調理して、自分の中で構築したアイドルの視界を表現したものです。この歌における「君」はアイドル本人ではなく、アイドル以外の人を指しています。
ちなみにこれはマリウス葉さんをモチーフとして詠みました。彼の抱く多様性に対する姿勢や身を置く環境を思ったときにふと浮かんだ歌です。
ただし、この歌は当然彼本人の思想では決してありません。もしかしたら近いものかもしれないけれど、これはあくまでも彼の視点を想像した私が作ったものに他なりません。


以上の二つの歌ですが、渡辺翔太さんを詠んだ歌にはぶっちゃけ、歌の横に彼の名前を添える必要はありません。なぜなら私の私による私だけの視点だからです。もしこの歌を読んだ方に「いやしょっぴーは蛇じゃなくて狼でしょ!」と思われても、「あ〜この短歌は剛くんの歌だね!」と思われても、個人的にそこにはこだわりはありません。伝わり方に関しては強い意向がなく、彼の名前という想像の補助を用いる必要があまりないからです。完成した時点で満足。ただ、もちろん、名前を並べておいた方が私の本意をより伝えやすくなります。

けれども、マリウス葉さんを詠んだ歌には、歌の横にはマリウス葉さんの歌の名前を添える必要があると思っています。それは、この短歌を読んでくれる方の捉え方を固定してしまいたいからです。たとえば、この歌を「とっつーを詠んだ短歌」だと考えられてしまうと、作った意図が一つも残らないのです。「個性を大切にしているマリちゃん」という自分の中の存在を捉えたからこそできた歌であって、もしもとっつーを捉えた歌であれば、きっと全く異なった物が出来上がります。



さて、一番初めに挙げた短歌は、「アイドルとして外界を見る」視点で作った短歌です。私は「アイドルとして外界を見る」歌においては、僕や俺という一人称を組み込まずに作ることを心がけています。なぜかというと、これ以上アイドルの存在を歌に固定してしまうのが恐ろしいからです。


初めに挙げた短歌は、増田貴久さんをモチーフとして詠んだものです。私が説明するまでもなく、NEWSはいろいろありました。いろいろいろいろありました。そんないろいろを通り抜けて現在活動していますが、その姿を追いかけている中、「まっすーってこだわりを追い求めてずっとずっと動いてるなあ」と思ったところからこの歌は生まれました。永遠というものは、時間や感情、歳も容姿も何もかもがその瞬間に、写真を撮ったように不変なものになること。ずっと動いているものは常に「今」なのだから、そんな存在には永遠は認められない。けれど、そんな存在でさえ「永遠」だと思えてしまう夢みたいなときがあったんじゃないか。そんな思いを詰め込んでできあがりました。

この歌の「僕」は決して私ではありません。私が私として外界を見たときはこうは思わないでしょう。頭の中で「増田貴久として外界を見たとき」を想像したからこそ、この歌は完成しました。


じゃあ増田貴久が思う「あの日」っていつ?「僕たち」の「たち」って誰を指す?「永遠」って、どういうことを永遠というの?


当然全部わかりません。私がわかるのは、「私の中の増田貴久」が考えることのみです。この歌の解説だってもちろんそうです。私は「これ以上アイドルの存在を歌に固定してしまうのが恐ろしい」と述べましたが、それはこの歌がどこかの誰かに「アイドル本人の思想である」と伝わってしまうことが本当に怖いからです。


いわば、作者が指定したアイドルの存在はフィルターです。アイドルの名前を併記することで、歌の意図を確実にわかりやすくすることができます。作った側としては、歌の意図をより正しく(と表現するのがあってるのかどうかはわかりませんが)読む方に伝えたい。捉え方をある程度固定した状態で詠んでくれる方に渡したい。その為に歌と名前を並べて飾ります。
しかし、アイドルの名前の横に飾られた短歌に使われている「僕」を、そのまま「アイドル本人」であると捉えられて、それがそのまま誰かに、また誰かに伝わって行くうちに、万一「これ○○が作った短歌らしいよ!」となってしまったら、と思うと、すこぶる恐ろしいです。
もちろん自分の作品にそんな訴求力や評価が伴っていないことはわかっていますが、画面の向こうには誰とも知れない人がごまんといます。その人たちが私の予測の範囲内の動きを100%することはあり得ません。インターネットの海に放流してしまった魚がどんな泳ぎをするのかは、もう知れることはないのです。一人称を使っていなかったって誤解されることに変わりはないのですが、使っていなければ視点をごまかすことができるんじゃないかとセコいことを考えて、少しでもそのリスクを減らせるように、アイドル個人を題として短歌を作るときは、できる限り一人称を使わないよう頑張ってみています。

だからこそ、初めに挙げた短歌を提出するのは考えました。思いっきり一人称使ってる上に内容が内容でセンシティブなこと詠んでるし。それでもこの短歌は、「増田貴久」を題としたからこそ作れた短歌であって、一人称を使ったからこそ完成した歌でした。悩みましたが、J31Gateさんはアイドル短歌の趣旨や詠み手のスタンス等をきちんと表明して下さっているからこそ、それに守られているからこそ一人称を使えるんだよな~、と思ってエイヤッと投稿しました。
(あとこれはめっちゃ蛇足になるんですが、短歌は31文字、この歌は32文字、字余りです。「永遠だった」で終わればぴったり31文字なんですが、言葉の最後に「ね」をつけてまろみを出すことでまっすーっぽさ、また、定型を破調することで、彼の個性を表すことができるかな?と思って足しました。)


また、私の中の「僕」に対する懸念はもうひとつあります。
私には、アイドル短歌においては、一人称を使わないで作った短歌こそが、自分の能力に対する評価であると思ってしまうきらいがあります。これはもう完全に自分が自分に対して拗らせているだけなのですが、一人称を使って作り、横にアイドルの名前を添えた短歌はアイドルの画像のようなもので、それをいいなと思ってもらえるのは当然であり、一人称を使わずに作った歌が、読んだ方にいかにそのアイドルに近いところにあるかを捉えてもらえるかが大事である。一人称を使い横に名前を添えた短歌を褒められても、承認欲求のすり替えをしているだけ。ツイッターやインスタなどで、アイドルの画像や映像を非公式に投稿して、つけられたいいねやコメントを自分に対しての評価だと勘違いしてしまっている人と一緒。好かれているのは自分(が作った短歌)ではなくアイドルだ、という思い込みです。
その考えから言えば、アイドルの名前を横に添えている限り、一人称を使おうが使うまいが好かれているのはアイドルだろと速攻ツっ込めるほどの破綻した思想です。頭では分かっているのにうっすらと残るこの観念に抗うべく、一人称を使わないようにしています。といいつつ、自分が作った歌を読み返してみたらめちゃくちゃ僕つかっとるがな。そんなもんですね。
このように思ってしまうのは対自分にのみです。他の方が作った短歌は、一人称があろうがなかろうが、アイドル個人の名前があろうがなかろうが、その人だからこそ詠めた歌だと思うし、「その人が作った歌が好き」という前提があった上でアイドルというフィルターを通すことにより、好きが一層増すだけです。この辺の機微は自分にもわかりません。多分創作は自己満足の世界だからと言い聞かせていても、人に見られる場所に置くからにはいいねと言われたい!!という気持ちがとてつもなく増した結果だと思います。


短歌の作り方は個性です。短歌の捉え方も個性です。最早自分でもなければアイドル本人でもない、第三の存在の視点ともいえる「僕」だからこそ詠めた歌だってあります。これからもあーでもないこーでもないと唸りながら、いろいろ作ってみようと思っています。