セルフメディケーション

バリンタン系女子が優しい嘘を求める日々を綴るブログ

さよならの向う側

はじめましてと出会ってしまった限り、さよならを言わなければならない。触れられない存在であろうが、言葉を交わせない機械であろうが、物であろうが人であろうが、生きていようが意識がなかろうが、全てにおいて同じである。さよならを言いたくないのなら、出会ってはいけない。さよならを言うのは苦しく辛く、寂しく悲しい。愛しいものであればあるほど、さよならなんて言いたくない。

言いたくないなら出会わなければいい。知覚したものをすべて、抱いた感情をすべて捨てられるのらなら、出会ったことをなかったことにすればいい。出会わなければこんなに疲れることだってなかった。きっと平静な気持ちでいられた。

 

渋谷すばるという“アイドル”の存在は、激しく瞬く星のようだ。その光に目がくらみ、前も後ろも分からなくなる。閉じた瞼の真っ暗な視界に、ひとつかがやく強い光。鮮烈な印象に、その存在だけが忘れられないまま記憶に残るのだ。

 

最初、私は彼に別段意識を向けてはいなかった。歌うまいなーと思うくらいで、特別な好きもなかった。何なら、番組のシャッフルメドレーでふざける姿に嫌な気持ちすら抱いていた。

ただ、同じグループにいる人を追いかける限り、目に入ってしまうのは普通のことで、もちろん見たくなかった訳ではないが、積極的に見ていた訳でもない。その見えているだけという感情が、見たい、その存在がなければならない、という感情に変わっていくのだから、不思議なものである。

 

ちょうど私が関ジャニ∞に関心を持ち出した頃、渋谷すばるは、“アーティストになりたいアイドル”と“アイドル”という存在の過渡期だったのではないかと思っている。カメラを睨み、髪を短く刈り、髭を生やす姿はおおよそ“アイドル”と呼ばれる存在とは程遠かった。正直ニワカの私には怖かった。微笑みをたたえて胃に優しく摂取できるアイドルを求めていた。彼はグループ活動とソロ活動を同時にこなす中で、比重は“アーティスト”に偏り、彼にとって“アイドル”という肩書きは邪魔なものになっているのではないか、と感じてしまっていた。

しかし、その内に髭がなくなり、髪が伸び、カメラに向かってピースをしながら笑いかけ、彼は“アイドル”を自称するようになった。もしかしたら、私が知らないだけでずっとそう自称してきていたのかもしれないが、それはまるで自分に言い聞かせるようだった。自分は“アーティスト”ではなく“アイドル”である。はち切れそうな感情を一所懸命押さえ込み、型におさまろうとしているようだった。私の求める、やわらかな感触の胃に優しい“アイドル”なのに、彼を見るたび、よくよく知りも知らないくせに、ああなんか無理してるなあ、と思ってしまった。

 

彼が退所するという報道が前もってふれたとき、そんなことを思っていたくせに、「嘘だ」と一番に思った。“アイドル”であることに、本当かと、無理はないかと感じていたのは確かだけど、“メンバー”であることには寸分の疑いもなかった。それはもちろん、何ならこの後に及んだ今だって疑いはない。私には知り得ないところで、彼らのそれぞれ混じり合う感情に、嘘は全くないのだろうと、関わりもない人間が確信してしまうほどに、結びつきは強く思えた。

それでも報道は本当だった。その日はあまり忙しくない仕事をいいことに、スマートフォンにかじりついていた。定刻にはもちろん公式サイトは繋がらず、若干の時差を経て報道が本当であることを知った。同じ日に記者会見があり、本人の口からその事実を伝えられた。

 

ボーッとしたまま会見の映像を確認し、インターネットの記事を漁った。横山くんが泣いていた。かわいそうだと思った。私はその日泣けなかった。案外ドライなもんだな、自担でなけりゃこんなもんなんかな、とすら思った。

今思ってみれば、その場で泣かなかったのは、ほぼ当事者である大倉くんが、ファンという遠くて近い存在が抱く疑問を全て本人にぶつけ、その答えを教えてくれて、不安にならなかったからなのかもしれない。不安になると泣きたくなる。なんで?どうして?という疑問が先行し、予想は様々なところへ派生する。必要のないことまで手を伸ばし、勝手に苦しくなっていく。そういう不安を先回りして、不必要な部分を潰してくれていた。だから、彼の感情に対する不安はなかった。ああそうなんだ、と受け入れることができた気がしていた。

 

友達とも話をした。退所するんだって、本当だったんだね、どうなるんだろうね、さみしいね。母とも話をした。本当だったんだって、どうなるんだろうね、すばちゃんアホやなあ。ぼんやりと思った言葉を落とすだけで、気持ちは不思議と凪いだままだった。

 

何日かして、帰宅途中の車の中で、いつものように音楽を流していた。信号待ちをしているとき、アーティストも曲もごちゃ混ぜに再生していたスピーカーから流れてきたのは、関ジャニ∞の夕闇トレインだった。ぼんやりと聴き始めてから、私は大声で泣いてしまった。彼が関ジャニ∞からいなくなると知らされて、私は初めて泣いてしまった。さよならを言わなければならないのだと思い知らされてしまった。置いてけぼりを食らっていたさみしいという感情が、急に実感を持って目の前に現れてしまった。受け入れられていた気がしていただけで、本当のところは何も受け入れられてなんかいなかった。

 

バカみたいに泣く自分こそが世界で一番バカに思えた。何も死ぬわけじゃないのに、と思った。思ってすぐ、“アイドル”の渋谷すばるは死ぬじゃないか、と思ってしまった。二度と出会えない存在になってしまうじゃないか。彼の進む道が、彼自身が、私の好きな彼を連れ去ってしまうのだ。

 

退所の日までがまるで余命のように思える。他人の人生を変えてしまう責任なんか私は持てないから、他の誰かが彼を諭して考えを変えてくれないかなと思った。やめるのやめましたって言ったって誰も怒るわけないんだから、そう言ってくれないかなと思った。

 

先程テレビで、番組最後の収録をして、花束を受け取る彼を見た。ひとつ物事の終わりを見た。“アイドル”の渋谷すばるは、確実に終わりに近づいている。

私はまだやめるのやめましたって言わないかな、と思っている。踊らなくたっていい、もし嫌だったなら愛想も振りまかなくていい、ただ関ジャニ∞に所属していてほしい。あの歌のこのパートにはその声が必要で、まだあの歌もコンサートで聴けてないのに?決断に対する不安はなくて、でも、寂しさが心に満ちて揺れている。

 

“アーティスト”の肩書きだけとなった渋谷すばるを追いかけるかどうか、今の私はその人を知らないから、まだわからない。どハマりするかもしれないし、まあいいかなとなるかもしれない。

それでも、たくさんのすてきなものをくれた“アイドル”の渋谷すばるを愛しながら、これから先の、見えるもの見えないもの、あらゆるものがどうなっていくのかを見つめながら、彼のいない人生をなんとなく歩んでいけるんだろうなと思っている。