セルフメディケーション

月曜から御めかし系女子が優しい嘘を求める日々を綴るブログ

ファンとしてのスタンス

私は常々「この世に絶対はない」と思っている。絶対明日生きていられる保証もなければ、想像する不安しかない未来を絶対迎えなければいけないこともない。絶対がないというのは、ネガティブでもありポジティブだ。この世に絶対は絶対ない。来年私はこの田舎を出て、東京に暮らしているかもしれない。その東京で、大好きなアイドルに出会い、恋に落ち、結婚するかもしれないのだ。

 

この界隈の言葉にはいまいちまだ疎いが、「リア恋」という言葉がある。「リアルに(もしくは、な)恋」の略であると思うが、つまり、現実味のない相手にリアルで恋をしてしまう、的な意味なのだろう。

そもそも恋ってなんだろう。別に哲学的な話に発展するわけではないが、ちょろっと調べてみれば、「特定の人に強くひかれること。また、切ないまでに深く思いを寄せること。恋愛。」という意味らしい。その感情がリアル、現実の自分に即しているのがリア恋。学生なら学生の、社会人なら社会人の、主婦なら主婦の生活の中に、アイドルを組み込み恋をするのがリア恋。

 

絶対は絶対にない。アイドルと私が絶対に結婚しないなんてきっと、私はもちろん他人だって、誰も断言できない。断言させない。

絶対は絶対にない私の妄想のバリエーションはそれはもう膨大だ。こんなクソ田舎にロケに来た彼に偶然出会い始まる遠距離恋愛、東京へ遊びに行った私が落とした携帯電話を拾ってくれた彼は私の電話番号を訊いてくれるし、コンサート会場で私に運命的に出会ってしまった彼は、コンサートそっちのけで私の手を取り抱きしめてくれる。毎日こんなことばかり考えていて、それらは全て私の日常に即した彼だ。

 

しかし現実は、こんなクソ田舎にはロケも来やしないし、旅先で携帯を落とすなんか真っ平ごめんで大事に大事に抱え込んでいるし、コンサートなんかああまあまあ・・・ねみたいなスタンドがほとんどだ。小5かそこらで、出せない手紙を聴きながら長野博さんとの距離の遠さに泣いた日以来、とりあえず今のところ、彼らと自分のこの距離に絶望して泣いていることもない。絶対は絶対にない。そう思った上で、自分の立場と彼らとの距離を理解している。普通に日々を生きている。もちろん妄想が現実になれば、それほど嬉しいことはないが。

 

そんな私のファンとしてのスタンスは、手越さんの「プラトニック」の歌詞である。

ボーッと聴いているときは、とても好きな曲ではあったが、「ああ恋愛の歌・・・不倫かな?」くらいにしか捉えてなかった。しかし、聴けば聴くほど、対アイドルとしての曲に思えたのだ。

 

絶対は絶対にない。ただ、事実として、彼らは手の届かない、私を認知することのない、遥かに離れた場所にある。私たちの世界は交わらない。ベン図を描いても塗りつぶせない。

そのように遠い存在を愛し、憧れることを許されている。焦がれることを咎められることはない。しかしそれは一方通行で、恒常的なコミュニケーションは、そこには、決してない。好きだよなんて言葉は伝えられないし、伝えたところで、未来なんて変わらない。約束もできない私たちが会えるのは、主にコンサートの会場である。一方的に見つめる時間には明確に終わりがあり、この時間が終わらなければとどれほど思っただろう。

 

私は彼らに優しい嘘をついてほしいのだ。見せてくれる夢が短くてもいい。思いが叶いっこない悲しい恋でしかなくたっていい。憧れる、思う限り、優しい嘘をついていてほしいのだ。

 

いい年をした男性に恋人がいないわけがない。ましてやあんなに素敵な人に、素敵な人がひしめく世界にいて、恋人ができないわけがない。誰かに触れたいと、抱きしめられたいと思わないわけがない。そんなことは、あまり良くない頭でもしっかりわかっている。ただ、その現実を突き付けられて受け入れるには、私の器は狭すぎる。

 

正直、知らなければ何をしていたっていい。だって知ることがないのだから。知らないことは好きにもなれないし、もちろん嫌いにもなれない。知らなければ、それはないことと同じなのだ。

アイドルという仕事は因果なものだ。自分どころか、他人にも作用してしまう。しかしそれがアイドルという存在だ。普通に生きていく以上に、人の人生に、良くも悪くも影響を与えてしまう。そしてその人生を選んだのは、他でもなく私が愛する彼らだ。そんな彼らの人生に触れられる私はきっと幸せだ。綺麗な嘘で私を包もうと努める彼らを愛せる私は。見て見ぬふりをできる私は。

 

当たり前を生きる誰も悪くない。ただ、アイドルは嘘をつくのも仕事であってほしいと思う。

付け入る隙を残してほしいのだ。彼らのつく嘘は、今の延長線上で交わるとは思えない私たちの人生が重なる瞬間を想像することを、許してくれる。知り得ない体温に溶けることを、見逃してくれる。

 

 

また、ファンとしてのスタンスとして、私はもう一つの歌詞をたずさえている。それは久保田早紀さんの、異邦人の一節である。

あなたにとって私 ただの通りすがり
ちょっとふり向いてみただけの 異邦人

ロッコから頷いてくれたそれは、たしかに私と大倉くんの間に発生したコミュニケーションだった。それはきっと間違いないと思う。ここには都合よく、絶対しかない意味で絶対を使う。

しかし、それを覚えているのは、恐らく私だけだろう。大倉くんにとって、私はちょっとふり向いてみただけの異邦人なのだ。日常を犯すことのない、敵意のない、そこにいた人。それできっと間違いはない。お互い正しい立場にある。

 

ただ、しつこいけれど、絶対は絶対にない。これから先、来年、再来年、5年後10年後、もしかしたらもしかしているかもしれない。そんな未来を妄想しながら、私は田舎で日常を生きて、携帯を大事に握りしめながら、可もなく不可もない席でペンライトを振り続けているのだろう。

目の前の向こうへ

むしゃくしゃする、片付けようのない気持ちにかこつけて、この時間にカップラーメンを食べた。缶ビールを開けた。明日の朝の体重も胃もたれも二日酔いも後悔も、自分のことは棚に上げて、全部彼のせいにしてしまおうと思ったからだ。

 

これはまた今度言おうと思っていることでもあるが、私はバンドスタイルより、歌って踊るアイドルスタイル(?)の方が好きだ。もちろんバンドスタイルだって好きだけれど、アイドルスタイルの方がもっと好きだ。だから正直、最近のバンド傾倒にはちょっとモヤモヤする部分がある。

 

そんな私でさえ、7人の関ジャニ∞が最後に演る曲は、バンドで、LIFEで、間違いなかったんだと思えた。それぞれが楽器を持ち歌う姿こそが関ジャニ∞だった。まるで現状を鑑みて、最後のためにあつらえられた曲かのように似合っていた。全ての歌詞が感情に寄り添い、全ての音が気持ちを代弁していた。

 

泣くくらいならやめるのやめればいいのに。この期に及んで私はそんなことを考えていた。泣くくらい辛いなら、誰も強いてなんかいないんだから、やめればいいのに。周りを巻き込んで悲しい思いももどかしい思いもさせて、それでも張本人が泣くなんて、勝手にも程があるんじゃないかと思っている。

 

それでも、そんなことは百も承知で、人に迷惑をかけてでも、彼はこれからの道を選んだのだと、考えるまでもなく理解できた。隣で歌えず泣く亮ちゃんに何も思わないわけがない。「せめてもう一回、もう一回 君がくれた笑顔で笑いたい」という歌詞が、亮ちゃんを思えてたまらなかった。

会見でふて腐れたように、手放しの寿ぎで送ってくれなかった大倉くんに、何も思わないわけがない。他のメンバーや、周囲の人たち、そして、渋谷すばるという存在との別れに怯える私たちに、きっと何も思わないわけがない。

 

そんな全てを踏みつけて傷つけて捨てて、ちがう道を歩くことを選んだのだろう。舗装された道を逸れて、畦道を切り拓く決意をしたのだろう。泣くほど別れたくない、愛しい人たちとも別れて、一人で歩くことを決めたのだろう。

 

素敵な歌を、音を、曲をありがとう。これまで与えられた全てを噛み締めながら、生きていこうと思います。きっと寂しさは薄れて、何も思わなくなっていくのでしょうね。それでもそれが普通です。私も自己責任で夜中にラーメンを食べ、缶ビールを開け、翌朝の胃もたれと体重と二日酔いに苦しむようになるでしょう。

 

渋谷すばるのこれからが、関ジャニ∞のこれからが、それらを愛する我々のこれからが、愛に溢れた素晴らしいものでありますように。

さよならの向う側

はじめましてと出会ってしまった限り、さよならを言わなければならない。触れられない存在であろうが、言葉を交わせない機械であろうが、物であろうが人であろうが、生きていようが意識がなかろうが、全てにおいて同じである。さよならを言いたくないのなら、出会ってはいけない。さよならを言うのは苦しく辛く、寂しく悲しい。愛しいものであればあるほど、さよならなんて言いたくない。

言いたくないなら出会わなければいい。知覚したものをすべて、抱いた感情をすべて捨てられるのらなら、出会ったことをなかったことにすればいい。出会わなければこんなに疲れることだってなかった。きっと平静な気持ちでいられた。

 

渋谷すばるという“アイドル”の存在は、激しく瞬く星のようだ。その光に目がくらみ、前も後ろも分からなくなる。閉じた瞼の真っ暗な視界に、ひとつかがやく強い光。鮮烈な印象に、その存在だけが忘れられないまま記憶に残るのだ。

 

最初、私は彼に別段意識を向けてはいなかった。歌うまいなーと思うくらいで、特別な好きもなかった。何なら、番組のシャッフルメドレーでふざける姿に嫌な気持ちすら抱いていた。

ただ、同じグループにいる人を追いかける限り、目に入ってしまうのは普通のことで、もちろん見たくなかった訳ではないが、積極的に見ていた訳でもない。その見えているだけという感情が、見たい、その存在がなければならない、という感情に変わっていくのだから、不思議なものである。

 

ちょうど私が関ジャニ∞に関心を持ち出した頃、渋谷すばるは、“アーティストになりたいアイドル”と“アイドル”という存在の過渡期だったのではないかと思っている。カメラを睨み、髪を短く刈り、髭を生やす姿はおおよそ“アイドル”と呼ばれる存在とは程遠かった。正直ニワカの私には怖かった。微笑みをたたえて胃に優しく摂取できるアイドルを求めていた。彼はグループ活動とソロ活動を同時にこなす中で、比重は“アーティスト”に偏り、彼にとって“アイドル”という肩書きは邪魔なものになっているのではないか、と感じてしまっていた。

しかし、その内に髭がなくなり、髪が伸び、カメラに向かってピースをしながら笑いかけ、彼は“アイドル”を自称するようになった。もしかしたら、私が知らないだけでずっとそう自称してきていたのかもしれないが、それはまるで自分に言い聞かせるようだった。自分は“アーティスト”ではなく“アイドル”である。はち切れそうな感情を一所懸命押さえ込み、型におさまろうとしているようだった。私の求める、やわらかな感触の胃に優しい“アイドル”なのに、彼を見るたび、よくよく知りも知らないくせに、ああなんか無理してるなあ、と思ってしまった。

 

彼が退所するという報道が前もってふれたとき、そんなことを思っていたくせに、「嘘だ」と一番に思った。“アイドル”であることに、本当かと、無理はないかと感じていたのは確かだけど、“メンバー”であることには寸分の疑いもなかった。それはもちろん、何ならこの後に及んだ今だって疑いはない。私には知り得ないところで、彼らのそれぞれ混じり合う感情に、嘘は全くないのだろうと、関わりもない人間が確信してしまうほどに、結びつきは強く思えた。

それでも報道は本当だった。その日はあまり忙しくない仕事をいいことに、スマートフォンにかじりついていた。定刻にはもちろん公式サイトは繋がらず、若干の時差を経て報道が本当であることを知った。同じ日に記者会見があり、本人の口からその事実を伝えられた。

 

ボーッとしたまま会見の映像を確認し、インターネットの記事を漁った。横山くんが泣いていた。かわいそうだと思った。私はその日泣けなかった。案外ドライなもんだな、自担でなけりゃこんなもんなんかな、とすら思った。

今思ってみれば、その場で泣かなかったのは、ほぼ当事者である大倉くんが、ファンという遠くて近い存在が抱く疑問を全て本人にぶつけ、その答えを教えてくれて、不安にならなかったからなのかもしれない。不安になると泣きたくなる。なんで?どうして?という疑問が先行し、予想は様々なところへ派生する。必要のないことまで手を伸ばし、勝手に苦しくなっていく。そういう不安を先回りして、不必要な部分を潰してくれていた。だから、彼の感情に対する不安はなかった。ああそうなんだ、と受け入れることができた気がしていた。

 

友達とも話をした。退所するんだって、本当だったんだね、どうなるんだろうね、さみしいね。母とも話をした。本当だったんだって、どうなるんだろうね、すばちゃんアホやなあ。ぼんやりと思った言葉を落とすだけで、気持ちは不思議と凪いだままだった。

 

何日かして、帰宅途中の車の中で、いつものように音楽を流していた。信号待ちをしているとき、アーティストも曲もごちゃ混ぜに再生していたスピーカーから流れてきたのは、関ジャニ∞の夕闇トレインだった。ぼんやりと聴き始めてから、私は大声で泣いてしまった。彼が関ジャニ∞からいなくなると知らされて、私は初めて泣いてしまった。さよならを言わなければならないのだと思い知らされてしまった。置いてけぼりを食らっていたさみしいという感情が、急に実感を持って目の前に現れてしまった。受け入れられていた気がしていただけで、本当のところは何も受け入れられてなんかいなかった。

 

バカみたいに泣く自分こそが世界で一番バカに思えた。何も死ぬわけじゃないのに、と思った。思ってすぐ、“アイドル”の渋谷すばるは死ぬじゃないか、と思ってしまった。二度と出会えない存在になってしまうじゃないか。彼の進む道が、彼自身が、私の好きな彼を連れ去ってしまうのだ。

 

退所の日までがまるで余命のように思える。他人の人生を変えてしまう責任なんか私は持てないから、他の誰かが彼を諭して考えを変えてくれないかなと思った。やめるのやめましたって言ったって誰も怒るわけないんだから、そう言ってくれないかなと思った。

 

先程テレビで、番組最後の収録をして、花束を受け取る彼を見た。ひとつ物事の終わりを見た。“アイドル”の渋谷すばるは、確実に終わりに近づいている。

私はまだやめるのやめましたって言わないかな、と思っている。踊らなくたっていい、もし嫌だったなら愛想も振りまかなくていい、ただ関ジャニ∞に所属していてほしい。あの歌のこのパートにはその声が必要で、まだあの歌もコンサートで聴けてないのに?決断に対する不安はなくて、でも、寂しさが心に満ちて揺れている。

 

“アーティスト”の肩書きだけとなった渋谷すばるを追いかけるかどうか、今の私はその人を知らないから、まだわからない。どハマりするかもしれないし、まあいいかなとなるかもしれない。

それでも、たくさんのすてきなものをくれた“アイドル”の渋谷すばるを愛しながら、これから先の、見えるもの見えないもの、あらゆるものがどうなっていくのかを見つめながら、彼のいない人生をなんとなく歩んでいけるんだろうなと思っている。